第8章 血縁、言語、文化はいかにつくられたか
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4万年ほど前に解剖学的現生人類が出現し、この時期特有の新種の道具や工芸品が作られるようになった 槍投げ器(アトラトル)とは基本的に一端に窪みのある棒で、この窪みに槍の柄先を挿入すると、槍を投げる際に腕の長さが実質的に延びる これで投擲時により大きな角運動量が得られ、結果として腕のみの場合に比べてやりはより速くより遠くへ飛ぶ 文化が大きく花開き、洞窟画、象牙や石でできた女性裸像、槍投げ器のウマの頭をかたどった取っ手など装飾的芸術も生まれた 弔いも行われるようにあり、死者は副葬品の数々とともに葬られた
死後の世界という観念がすでにあったのだろう
ついにこんにちに連なる精神が誕生した
ここに至るまでには、少なくとも10万年という長きにわたってアフリカの考古学に記録された緩慢な蓄積があった
しかし、約4万年前に始まり、その後の2万年で急激な蓄積が起きた時期には、工芸品の質、量、多様性がヨーロッパで(必ずしもヨーロッパに限られていたわけではない)凄まじい爆発を魅せた
こうした文化的発展の多くには、さらに高度な道具がかかわっているし、食物探しにも関連しているが、そうでないものも多い 洞窟画や女性裸像は今述べたばかりの事情で説明するのは難しい
これらの芸術は、ホミニン進化の最初期から見られたが、ホモ・サピエンスの出現によって大きく膨れ上がった重大な問題、すなわちきわめて大きな社会集団でいかにして社会の結束を維持するかという問題を解決しようという試みの一環だったのかもしれない これらのメカニズムはすべて文化に関わるので、必然的に言語が重要な役割を果たしたはずだ 言語が進化したわけ
言語が進化した理由
過去には言語は人が外界に関する情報をやり取りするために進化したと考えられた
少なくとも現生人類においては社会的絆を深めるために進化したと考える人もいる
両説で一致していること
言語の文法構造が情報の交換ができるようにデザインされている点
両説で違っていること
技術の知識と社交の知識のどちらが私達の存続に必要不可欠か
すなわち、言語の主たる機能が何なのか
付随的な機能は副産物
問題はどちらの説にも原則的な裏づけがなく、比較データか、適切な考古学的証拠でもない限り、どちらか一方を選ぶのは難しいこと
この2つの仮説を検証するには、どちらの情報を覚えるのが楽か人に尋ねてみるといい
この手法は人は特定の情報に特に注意を向け、他の情報にはあまり注意を払わないという前提に立っている
ある形質の当初の特徴は、その後に別の付加的機能を果たすように適応したにしても、その形質にとって最も自然であり続ける 無論これは、歴史上の獲得順を検証する最高の方法ではないかもしれないが、おそらく最善の方法
社会脳仮説には、言語に関する3つの異なるバージョンがある 言語は社会関係に関する情報をやり取りするためにあるという説
この説によれば、言語は社会関係を結んで補強するために情報をやりとりするよう進化し、各人は広域にわたる大規模ネットワーク内の他のメンバーに関する情報を得ることができる
もし言語がなければ、これを行うにはその人物と直接会わねばならない
言語は形式的な取り決めと公的宣言のためにあるという説
狩猟採集社会で男性はいったん狩りに出ると数日帰ってこないので、女性は守るものもなく取り残され、男性の不在に乗じて性交渉に及ぼうとする競争相手にさらされる そこで子どもの父親が誰かを明確にするため、親密な関係にある男女に関する共通協定が必要だということにより、これが結婚のような象徴的取り決めの基盤になったという
自分が誰の父親かという問題は、男性にとっての進化上の重要な問題で、ありそうな話
しかし、女性は子どもの父親が誰かをつねに把握しているが、男性は100%の確信は持てないので、判断を誤ると他人の子を養育するはめになる
しかし、この契約は言語の原因なのか結果なのか
契約は労働に分業があることを前提としていて、それは男性が大掛かりな狩りを行うようになるまでは存在していなかった
言語は異性の注意を引いて逃さないためにあるという説
言語は求愛相手に自分を売り込む性淘汰として進化したのであって、つがいになったあとも男女が互いに対して熱意と興味を抱いたままでいるためのメカニズムだと論じた 言葉がとかく大げさで冗長なのはこのためだという
言葉で遊ぶ能力は頭脳が優れ、優良な遺伝子を持っている証し
性淘汰の力では自然界ではいたって強く、自然淘汰が与える機会を逃さずにとらえる
したがって、自分を売り込むのに言葉を駆使するのは、言語を用いた性淘汰の結果であって原因ではない
私達はこれらの言語機能を検証するために二種の実験を行った
実験で用いたのは物語の内容に関する記憶で、これをもとにヒトの頭脳がどのような情報に適応しているかを調べた どちらの実験でも、参加者は外界にかかわる情報より社会的な情報をよく覚えていた
同じことはネット上のつぶやきサイトの内容にも当てはまった
これらの実験の結果から、私たちにとって社会的な情報のやり取りが他の情報に優先することがわかる
少なくとも他の情報に比べてよく注意を向けるし、覚えてもいる
2つ目の実験をデザインして実施したジーナ・レッドヘッドは、四種の仮説を直接検証することを当初から意図していた 三種が社会関係に、残りの一種が技術に関するもの
4つの仮説はそれぞれ異なる物語によって表され、もう一つ恋愛関係に焦点を当てた社会関係の物語(言語が社会的情報をやり取りしていうるという仮説の純粋なゴシップ版)が加えられた
この実験デザインが優れていたのは、ミラーの求愛行動仮説を、大げさな言葉遣いを用いた(社会関係の物語ではなく)技術の物語に置き換えた点
参加者は三種の社会関係の物語を、二種類の技術に関する物語よりはるかによく覚えていたが、社会関係の物語間で差異は見られなかった
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このことは、語りの巧みさ自体は言語機能にとって重要でないことを示唆している
ただし、それが性淘汰によって進化した特徴だという可能性はある
言語の分布がこの問題にさらに手がかりを与えてくれた
数年雨にダニエル・ネトルが言語集団の規模(現代の言語話者数)とその言語が話される値域は、緯度、より詳しく言えば、植物の生育期の長さと相関があることを明らかにした 緯度が高くなるにしたがって生息地が季節に依存するので、植物を育てられる期間が短くなる
気候が予測不能で生育期がきわめて短い値域では、交換関係や交易関係が盛んでなければならないとネトルは説いた
状況が難しくなって別の場所に移ることができるためには、広い面積が必要になる
問題は、隣人に助けを求めるには、直接話すことが欠かせず、それには同じ言語を話さねばならない点にある
また世界像(道徳的信念、世界観など)が同じであればことはうまく運ぶだろうし、共有された世界像は同一の言語から生まれる
ヒトは対人関係以外のことになると、あまり覚えていないことが私達の実験でわかった
自分の親族や親友にとって好都合でない限り、私達は外界に関する情報を伝えるのにさほど熱心でないのも明らかだ
アメリカ北東部のメイン州沿岸沖で、ロブスターがいる場所を漁師同士がラジオでどのように知らせ合うかを調べて得たのがこの結果だった
この研究を行ったクレイグ・パーマーによると、ほとんど皆同じ共同体のネットワークにいる場合に比べて、よそ者が多い共同体の漁師はロブスターがたくさん穫れる場所を教えたがらなかった 情報交換はいったん言葉を使って関係を築いた後でなければ起きない
言語がもつ明白な利点は、社会的つながりを肉体的なもの(毛づくろい)から音声に転換することによって、複数の個体に同時に「毛づくろい」し、より大きな共同体を作ることを可能にする点にある 言語はこれをまったく異なる3つのやり方で成し遂げるのかもしれない
まず、互いに自分が世界をどう見ているかを教えあう(共通の世界像をつくる)
次に、物語(自分が何者で、どこから来たかにかかわる物語)を聞かせる
最後に、冗談を言って人を笑わせる
最初の方法については次章で論じるつもりなので、残りの2つの方法について
それ以前、笑いは一種の合唱だった
なんらかのできごとに多くの人が同時に笑いに誘われるというもので、それはこのできごとに対する単純な反応なのかもしれない
散発的で予測不能なので、笑いの合唱が起きる間隔はきわめて不規則
言語は笑いがもつ絆作りのメカニズムを、以前なら不可能だったものに変えた
冗談は必ずと言っていいほど他者の心の状態にかかわるので、それを理解するには志向意識水準の次元が高くなければならない 特に隠喩の場合にはそうだ(心の理論がなければ理解できない) とはいえ、冗談は実は言語の副産物だ
冗談を飛ばすという行為は、他者をからかう以前にその人の心の状態にかかわる発言をする能力があるか否かに依存する
物語をして聞かせるということは、共通の世界像を共有する人々のネットワークによって私達をつなげて共同体意識を作り上げる
これによって、隣の谷の住人を自分たちの共同体の一部と考えるべきか、そうでないかがわかるのかもしれない
つまり、150という互いをよく知る集団を定義する限界を越えて、もう1層を付加する可能性がありそうだ
内容のいかんにかかわらず、焚き火の周りで物語して聞かせることによって人々の結束感が固まるという可能性もある
感情を掻き立てるのは共同体意識を生み出すのにいたって効果的らしく、それはおそらくエンドルフィンが分泌されるためと思われる
たいていの伝統社会における成人儀式(通過儀礼)では恐怖に満ちた経験が待っており、このことが一緒に儀式に臨んだ若者たちに生涯を通じて消えることのない仲間意識と互いに対する責任感を植え付けるようだ 物語して聞かせるのが夜間だととくに効果的なのは偶然とは思えない
巧みな話し手は暗闇に対する恐怖によって聞く者の情動反応を高めることができるからだと思えるが、暗闇は自分たちがいる場所以外の世界を遮断することによって仲間意識を醸成するのかもしれない
この節をまとめるに当たり、技術にかかわる情報交換を促進するメカニズムの機能としてとらえると、言語がいたって奇妙な性質をもつことに触れておきたい
言語はたえず方言に分かれつつあり、またたく間に互いに意思疎通が不可能な新たな言語になってしまう
英語は現在では公式に6種の言語から成るが、起源が1000年以上さかのぼるものは一つもなく、たった数百年前というものすらある
言語が協力をうながすためのものであるなら、なぜこれほどまでに非効率的で、近隣の集団同士ですら互いに理解することが難しいのだろう
換言すれば、方言はなぜその話者の出身地を明確にする印をもつのか
方言は出身地を同じくし、少なくとも小規模社会の中で、互いに血縁のある人々の小さな共同体を特定するというのが答えのようだ
現代でも、方言はきわめて速く変化するため、ある人が話す方言を聞けば、その人が生まれた土地のみならず世代まで知ることができる
言語が技術にかかわる情報交換をするためのもであるなら、この答えは理解しづらい
しかし言語が小規模で排他的な共同体を作るために進化したと考えるなら、この答えは完璧に理にかなっている
血縁と友達のちがい
言語には、その起源であったと考えられることの多い側面、すなわち親族を名付けるという重要な側面がある 血縁関係を明確にする能力が古くからあったという格別な理由はないが、各個人を名付けるという習慣はきわめて早期からあったらしい
一方で、親族の名称(兄弟、姉妹、祖父、おば、いとこ)の体系はかなり入り組んでいて、一般化して言語を分類しなければ理解できない
そしてこの行為はおそらく入れ子構造の把握を要しただろう
なぜなら当然、血統には入れ子構造があるからだ
親族名称は、二人の人間の間の正確な関係を一言で表すことができる
人類学者は親族名称の体系にはおもに6類型あるという点で意見が一致している
これらの体系で異なっている点
「平行いとこ」と「交叉いとこ」を区別するか否か
平行いとこは親と同性の兄弟姉妹の子、交叉いとこは親と反対の性別の兄弟姉妹の子
出自を「単系」または「双系」のどちらでたどるか
英語は血縁関係を双系で見るが(cousin, aunt, uncleなどの語をどちらの場合にも用いる)、ゲール語など一部の言語は母系と父系の親族について異なる用語を用いる これらの親族名称がなぜ異なるのかについては、まだ十分に説明されたとは言い難い
とはいえ、その主な機能は結婚相手に選んでいい人を明確にすることにあるので、その土地に特有の婚姻および相続パターンを反映するのではないか
たとえば、クロー型とオマハ型の親族名称体系は互いに鏡像関係にあり、父親の血を引く可能性の程度によって異なる結果になったそうだ
母系社会では類縁度が母系で決定され、こうした母系社会はおもに父親がだれであるかの確度が低い(つまり、男性が自分の妻の子が実際に自身の子であるかどうか自信が持てない)文化と関連している(Hughes, 1988) こうした詳細の一部は文化史における偶然の産物かもしれないし、地域の生態系の事情によるのかもしれない
世代から世代へ継承できる土地のような独占可能な資源があり、出自によって誰に継承の権利があるかを知ることが肝要であるときなど、こうした親族名称体系がとりわけ重要になる
人類学者の一部は、生物学では親族名称体系を説明することはできず、それは多くの社会では生物学的に血縁関係のない人同士を親族として扱うこともあるからだと主張するが、これは2つの異なる理由から根拠に欠ける
第一に、この主張は生物学的な関係を深く理解していない結果と思われる
このことは私達が婚姻による親族関係をどう扱うかでわかる
英語では、姻族を分類するのに、生物学的な親族とは異なる呼称を用いる(stepfather, stepsisterなど)
しかしマックス・バートン=チェルーと私が示したように、私達は心情の上では姻族を真の親族のように扱い、それは生物学的にきわめて理にかなった理由がある 姻族は次世代に関して親族と遺伝的な利益を共有する
際立って洞察に富むが、あまりその良さ知られていない(数学的記述があまりに多いため)著書で、アウステン・ヒューズは血縁関係に関する真の問題は過去の関係ではんかう、未来の子孫への関係であることを示した 婚姻から生ずる子孫について、姻族は他のどの親族とも同程度の利害関係をもつので、生物学的な親族として扱われるべきだという
ヒューズによれば、生物学的な親族関係に関する、この穿った見方によって、民族誌学的な親族名称が多数共存する事実に簡単に説明がつくという
第二に、伝統的な小規模社会では、血統か婚姻かの別を問わず、共同体の誰もがみな親族である
まだそうでない少数の者も、誰かと結婚したり、擬制的親族または養子などの適切な地位を与えられたりして親族となる
一部の人が誤って親族と分類されたり、少数のよそ者が擬制的親族と認められたりする事実は、親族名称の体系が生物学的な原理にしたがっていないという証拠ではない
一握りの例外があるからといって、生物学的な親族にかかわる進化過程が否定されるわけではない
その理由は血統を過去に辿っていくと遺伝的な類縁度はいたって速く減っていくからだ
とりわけ小規模な共同体では、6世代ほどさかのぼれば、誰もが他の誰とも同程度の親族関係にあるようになる
Hughes, 1988は、あなたと私がいま思春期にある世代(つまり、繁殖直前のコーホート)との類縁度を計算しようとすると、このコーホートが毎年変わり、安定した類縁度を得ることが難しいという問題に対して、血統が絶妙な解決策になると論じた Hughesは、遠い昔の祖先に着目すれば、それが安定した基準点になることを示した
より重要なのは、この祖先が実際の人物であるか架空の人物であるか問題にならない点にある
架空の人物を血統に入れることができ、この人物が十分昔にさかのぼるなら、2人の類縁度は全く問題にならない
否定するには、少なからぬ親族名称カテゴリーが有意な生物学的境界を超えることを示さねばならないだろうが、実際にはそのような事実はない
養子に迎えられた子どもは養父母を実親と感じるようになるが、養子縁組そのものがかなり稀な現象だ
また伝統的社会で養子縁組が起きたとすると、その多くは親族による
このことは人類学者の研究によって実証されている
真の意味での絆が形成されるのは、子どもがとても小さい場合のみだ
親族名称の体系が生物学的な血縁関係にほぼ準じるらしいことに鑑みれば、それは血縁淘汰(血縁選択)によって生まれるというのが自然な見方だろう ハミルトンは親族に対する利他性の進化を説明し、以降この概念は現代の進化生物学において基本的な役割を果たすようになった 一般に、人が親族を助けたいと思う度合いはその相手との類縁度に応じて変わる。
この度合いはその人が誰の子であるかによってかなり正確に計算できる
この点において、血縁関係は友情とはきわめて異なった性質をもつようだ
異なる距離にある家族や友人に対して利他的に振る舞う意欲について、私達や他の研究者多数が研究したところ、いずれも人は友人より家族に対して利他的であり、それは相手との社会的距離が同じでも変わらないことがわかった
私達には親族を優先して助けようという本能的な反応があるらしく、おそらくそれは血縁淘汰の結果と思われる
それでも血縁関係にはどうしても腑に落ちないことがある
血縁関係は誰と一緒に育ち、子どもの頃からそれらの人々のことをよく知るというだけのことのように思われる
つまり、それは深い友情のように思われる
ところが、親族カテゴリーでより距離が隔たった人でも、近い親族と同じくらい強い反応を引き出す人もいる
とはいえ、これらの遠い関係は厳密には誰かが決めた言語上のカテゴリーの呼称にすぎない
言語上の呼称によって、普通なら深い情動や生物学的結びつきにもとづく、近い血縁関係の特権である情動的な反応が生じるのは不思議というほかない
つまり、血縁関係は、誰かに対してどう振る舞うか決めねばならないときに、さほど時間を無駄にせずに複雑な関係を処理するための早道である可能性がある
親族についてはたった一つのことを知るだけでいいが、友人に対してどう振る舞うかを決めるには、過去にその友人とどのようなやり取りがあったかを辿らねばならない
血縁関係にある人に関する決定は処理量が少なくなる分、速くより少ない認知コストで済ませられる
このことは、心理学的には、血縁関係が暗示的な(自動的な)過程であるのに対して、友情は明示的な過程であることを意味するのかもしれない
小規模共同体のように集団内の全員に血縁関係がある場合、親族名称は共同体の構成員を「素早く低コストで」特定するのに役立つ
外婚制の社会(一方の性別の人が共同体外の出身であるのに対して、もう一方の性別の人は生まれた共同体内に生涯を通してとどまる)において、二世代前の一組の夫婦(曾曾祖父母)に連なる、生存する子孫の数(現在生きている三世代、祖父母、父母、子ども)と、150人という数字がほぼ同一であるのは偶然とは思えない それは共同体内の誰もが全員の親子関係を個人的に知っていて断言できる範囲
親族名称の体系のなかに、150人の共同体という系統の自然な境界を越えて血縁関係を特定するものが一つもないのは驚異的なことだ
王侯貴族は典型的により遠くの祖先まで血筋をたどることができるが、彼らは特異な例だ
彼らが享受する土地所有権やその他の特権はたいてい相続されたものなので、これらの特権を正当化するために多くの場合には長い血統が存在する
私達の親族名称体系が人間の自然な共同体の構成員を追跡し、その知識を維持するためのものであるのは明らかだ
宗教と共同体の緯度とのかかわり
世界各地でシャーマンの仕事には音楽と踊りが特に重要な役割を果たし、信者がすっかり意識を失ってトランス状態に入るまで(ときには薬物を用いて)働きかける
トランス状態になった信者は超越した世界に入り、祖先や友好的な精霊の導きでその世界を旅したり、悪意のある精霊に悪さを仕掛けられたりする
精霊の世界の旅が実は自分の内面への旅であるのは明らかだが、経験があまりに鮮烈で完全に現実としか思えない
この時点で言語は宗教にとってさして重要ではない
互いに自分の精霊界の旅について話し、自分の経験について共通の理解に達する事が必要になるかもしれないが、このために高度な神学が必要になるわけではない
そのような神は存在せず、精霊の世界で出くわす大半の生き物はきわめて見慣れたもの
なかにはいわゆる獣人と呼ばれる、異なる野獣の寄せ集めのようなものもあるかもしれない トランス状態とそれに達する方法はおそらくきわめて古くからあり、ハイデルベルク人のあいだで音楽と踊りが絆を固めるメカニズムとしてどんどんその重要性を増していき、とりわけ熱心な人々が疲れ果てるまで踊ったときに偶然発見された可能性が高い
トランス状態を作り出すのはその方法さえ知っていればさほど難しくないので、この偶然の発見から意図的にトランス状態を起こすようになるのはわけもなかっただろう
世界中で見られるシャーマニズムは、いずれも共通のモチーフを持つ
まず穴またはトンネルを抜けて精霊の世界に達すると、そこは光に満ちた明るい世界になっている
だれもが、精霊の世界の度は危険に満ちているので、善意の道案内が必要になるという
また、出口が見つからないかもしれないと恐ろしくなるとも言う
トランス状態で踊るのはひどく疲れるので、ときには倒れたまま亡くなる
この種のトランス状態にいる踊り手は共同体内で社会的バランスを維持するのに重要な役割を果たすようだ
アフリカ南部のサン人のあいだでは、肥大化した共同体内の関係が口喧嘩のために悪化しはじめるとトランス状態での踊りが起きることが多い トランス状態は人間関係を元の状態に戻し、共同体が再び相互に支え合うネットワークとして機能するようにはたらく
些細な言いがかりや不正が再び蓄積すると、新たなトランス状態と踊りが必要になる
このことは、トランス状態で踊ること(トランス状態そのものではないにせよ)がエンドルフィンの大量分泌とかかわっていることを反映するのだろう そしてこれが、人同士を結びつけ、関係を修復する昔ながらの方法なのだ
エンドルフィンはさらに私達の肉体や精神の健康に良い影響をもつので、トランス状態で踊ることは共同体全体の健康度と結束に利すると思われる
一部の学者(たとえば、Boyer, 2001)は、宗教に健康上の利点はないと主張したが、これはある証拠とまったく噛み合わない ここでは宗教そのもの(神への帰依心)と、宗教や行事への活発な参加のどちらを問題にしているのかについて混乱があるようだ
前者より後者が重要なのはほぼ確実だ
ある宗教に帰依していると主張しているだけでは何の効果もなく、Boyerらがこちらを念頭に置いたのだとすれば、彼らが何の効果も見いだせなかったのは当然である
宗教の認知科学は、ほぼ例外なく、宗教的経験の真髄ともいえる宗教のきわめて情動的な経験より、教理宗教に関わる高度な概念に注目しているようだ
すなわち、宗教は小規模社会の結束と帰属意識を強化する方法として進化したようだ
しかし宗教には、どうしても彼我の別、グループ内/外の別にこだわるものの見方につながるという残念な部分がある
世界像を共有し、同じ宗教的経験を持ち、同じ行動規範に従うことは、自分の共同体と隣の谷の住人の間に明確な境界線を引くことになる
私達は赤道付近ではより小規模で、より内向きで、結束の固い共同体を形成するのに対し、極地に近づくにしたがって大規模で、外向きで、個人主義的な共同体を形成するというのである
これらの生物学者は、この相関の原因が病原体負荷であることを突き止めた 熱帯が病気の温床であることは有名で、現在でもつねに新しい病気を生み出し続けている
局所的な病原体負荷が高い条件下で健康リスクを減らすためには、他の集団との交流(とりわけ婚姻)を避けるのが効果的だと二人は論じた
自分が慣れ親しんだ共同体と病気と付き合っていくのが賢明であって、それはすでに免疫を進化させるための時間をともに過ごしてきたからだという この議論は、先に触れた言語集団に関するダニエル・ネトルの主張と互いにうまく補足しあう ネトルの仮説は言語集団が高緯度で大きい理由を提供するが、熱帯で小規模であるべき理由を提供してはいない ところが、フィンチャーとソーンヒルは共同体が熱帯で小規模であるべき理由は提供しても、高緯度で規模が大きくなる原理的な理由は提供していない 高緯度では病原体の淘汰圧がかなり低くなるので共同体が大きくなることができるという主張は満足な説明になっていないが、それは本書の第2章 なにが霊長類の社会の絆を支えたかで論じた大規模な共同体で生活することにかかわるすべての社会的・生理学的コストを帳消しにするほどの要素がないからだ とはいえ、これらの2つの仮説を組合せると納得の行く解決策になる
病原体リスクによって熱帯では小規模な共同体が好まれるが、高緯度ではこうした淘汰圧が低くなるので、盛んな交易に対する需要がこれに勝り、大規模な共同体が進化する
高緯度では大規模な共同体が必要だが、共同体が大きくなるのにともない必然的に生じる緊張を和らげるメカニズムもまた必要になる
宗教儀式が共同体内の調和を維持するのにそうしたメカニズムとして不可欠な役割を果たす
現代でも、ある宗教への帰依によって共同体への帰属意識が強化され、人々は互いに寛容になる
ここで重要なのは、宗教によって人がより社交的になることではなく、その特定の共同体の構成員に対して寛大になることだ
死後の世界
考古学者が死後の世界を信じる根拠として認めるのはたいてい意図的な埋葬のみだが、彼らは意図的な埋葬を副葬品の存在と同一視する 副葬品は、死者が彼岸で身支度するのにこれらの品々を必要とすることを含意している でなければ、死者を捨てたり放り込んだりすればすむ話だ
意図的な埋葬は、後期旧石器時代にはヨーロッパや西アジアの100を超す場所で確認されているが、中期旧石器時代には旧人が何倍も長く暮らした場所ですらせいぜい3, 40例しか見られない 後期旧石器時代が先行するあらゆる年代とこと成るのは、たいてい遺体は仰向けで、手足を延ばした状態で葬られていたこと
ただし二体は下向きで、数体は脚を曲げられていた
中期旧石器時代のほとんどすべての「埋葬」では(ネアンデルタール人の場合を含む)、遺体はただ放り投げられただけのように見える 後期旧石器時代にレッドオーカーがなぜこれほど広範に用いられたのかは謎のままだが、それは技師的な身体装飾であった可能性がある
現代の伝統的社会でもレッドオーカーが用いられることが多いからだ
これらの埋葬の多くはとても手が込んでいて、副葬品も豊富だ
2万2000年前に永久凍土を掘ってつくられ、遺体は装飾品、道具、象牙の彫像、装飾を施した鹿角製の杖など多数の副葬品、そして中にレッドオーカーが詰められたヒトの大腿骨とともに葬られていた そばに11本の投げ槍と2.4メートルの象牙製の槍が置かれていた
子どもが頭飾り、ペンダントのついたネックレス、腕輪、人形、ボタン、骨角製刺突具その他の道具とともに葬られていた
遺体が多数の穴の空いた貝殻や動物の歯とともに葬られた
遺骸にはおびただしい料のレッドオーカーが振りまかれ、マンモス牙のペンダント、元は腕輪だったらしい貝殻、数個の象牙製の杖とともに葬られていた 片手に23センチメートルの石刃も持っていた
穴の開いた貝殻のペンダントを首にかけられ、四頭の異なるアカシカの犬歯でできた頭飾りをつけて埋葬 ネックレスと頭飾りはとくによく見られ、後期旧石器時代の埋葬地の約3分の2で見つかる
後期旧石器時代の埋葬には、何体も一緒に葬られていることが多いという、もう一つ別の特徴がある
スンギール遺跡では二体の子どもと、三体目の成人が傍らに
フランスのクロマニョン洞窟では5体の遺体(一体は幼児)が近くに埋葬
この種の集合墓地は後期旧石器時代以前にはまったくといっていいほど見られない
こうした埋葬様式は死んだ人は一緒に同じ場所に行く、あるいはプシェッドモスティのように同時期でない場合には、すでにあの世で待っている人々のいる場所に赴くという考えを示唆する これらの発見からわかるのは、少なくとも2万5000~3万年前までには、死後に人が行く精霊の世界、生者もトランス状態にあれば訪れることのできる世界という概念が十分に確立されていたということ
これらの証拠からは最新の年代しかわからないため、そうした信仰がすでに長く存在していたことはおおいにあり得る
ともかく、あることだけはほぼ確かだ
つまり、こうした信仰や、それに関わる活動は解剖学的現生人類にしか見られないということ
このことは、この活発な様式を持つ宗教が、現生人類の系統においてのみ進化したこと、したがって彼らが大きな共同体の結束を固めることにつながってきたきわめて重要な進展だったかもしれないという見方を裏付けるようだ
table: 表8-1 宗教的信条の複雑さにメンタライジング能力がおよぼす影響
志向意識水準 信念の言明例 宗教の形態
1次 神は[…存在する]と私は信じる 存在にかんする信条
2次 神は[法を犯すものがいれば介入する]のを厭わないと私は信じる 超自然的な事実
3次 神は[…介入する]のを厭わないとあなたが信じていると私は思う 私的な宗教
4次 神は[…介入する]のを厭わないで欲しいと私達が考えているとあなたが信じていると私は思う 社会的な宗教
5次 神は[…介入する]のを厭わないで欲しいと私達が考えていることを神は知っているとあなたが信じていると私は思う 共同体の宗教
三次から四次の宗教をもつのは確かに可能だが、五次の志向意識水準に達した時に得られる宗教の質には大きな変化がありそうだ
ネアンデルタール人をはじめとする旧人が四次以上の志向意識水準をもたないことを考えれば、彼らがいたって複雑な宗教を持つことはなさそうだ
これが一体何を意味するかはわからないが、旧人が熱心に宗教活動をしていたという考古学的証拠が限られていることから考えて、さして複雑ではなかっただろうと思われる
信仰心を裏付ける別の材料に、先史時代の洞窟でときおり発見される壁画がある スペイン北部のアルタミラ洞窟で最初の壁画が発見されてから一世紀ほどのあいだに、150を超す洞窟の壁や天井に後期旧石器時代の人々が移動、人、抽象的な事物の壁画を残しているのが発見された 自然素材の絵の具で描かれたもの、洞窟の軟らかい壁に指で刻まれた二本線の壁画やいたずら書きもあった
これらの壁画が残されている洞窟の大半はスペイン北部とフランス南部に集中しているが、ドイツ南部やイギリスなど離れた場所で見つかったものもある
そこに行くのがいたって難しいものもある
屋根が崩落していたり、入り口が現在では海中に没していたりする
1万年前という最終氷期末に海面が120メートル上昇したために、かつては海水準から十分な高さにあった入り口がいまでは海中にある
アフリカ南部のサン人、アメリカのアリゾナ州やニューメキシコ州の古代インディアンなどが、有史以来たくさんの壁画を残したことを考えれば、かつてヨーロッパやアフリカのより目立った場所にももっと多くの壁画などがあったが、こんにちまで残存しなかったのだろう
ヨーロッパの洞窟画が現在まで残ったのは、奥深い洞窟が雨風から守られただけかもしれない
ごく少量の絵の具を試料として検査する技術が最近になって確立されるまで、壁画の年代を特定するのは難しかった
壁画の一部は比較的最近のもの
訳注: アルタミラ洞窟のものについては最近の研究によってこれよりいくらか古いことがわかっている
他の壁画は多くの人が考えていたよりずっと古かった
動物たちは密集して描かれ、大きな群れを作って互いに重なりあっている
ときには、岩石そのものの特徴を活かして特定の動物が描かれていることもあり、実に生き生きした表情を見せる
また、ある方向からしか見られない動物も描かれている
抽象的な形状や、線と点のパターンもよく見られるものの、ヒトを描いた壁画はおどろくほどまれ
ただし、アフリカ南部の狩猟採集者の有史以来の壁画ではよく見られる
しかし、鳥肌が立つほどのものと言えば、手形のステンシル画
全部合わせると、507個の手形が残されていて、ほぼすべてが岩の表面に手をおいて絵の具を吹き付けて描いた陰画
ところが、ショーヴェ洞窟には2つの特異な壁画があり、それぞれに48個と92個の手のひらの陽画が含まれている 絵の具に浸した手を岩に押し付けた
なぜ後期旧石器時代の人々がこのような壁画を残したのかはわからない
おびただしい数の動物が描かれ、一部の動物の脇腹からは矢が突き出ているように見えることから、壁画は狩りの成功を願う魔法の儀式を描いているらしい
壁画の多くが獲物の動物を描いているのはたしかでも、すべてというわけではない
ショーヴェ洞窟の力強い雌ライオンのように、捕食者を描いた壁画もある
別の説明は、壁画は成人式その他の儀式とかかわっているというもの
少なくとも手形の一部は大人のものにしてはあまりに小さすぎる
壁画そのものが壁の下のほうにあることもある
その場合には大人が描くのは難しそうだ(不可能ではないにしても)
さらに別の説明は、壁画はシャーマニズムによる精霊の世界への旅を描いているというもので、この見方は獣人の例によって裏づけられる これらの壁画は特別な人々の集まりや同盟の象徴あるいはトーテムの機能を果たしたのかもしれない もしそうなら、次章で見ていくように、壁画は特別な儀式、おそらくトランス状態での踊りとかかわる男性の集まりであった可能性がある
なぜヒトの社会は階層が多いのか
宗教と物語が重要だったのは、原始時代の基準から見てきわめて大きな共同体のつながりを維持するためだったと述べてきた
ではこのことが現代社会において何を意味するか
各人は、この150人のうち一部の人とより強い関係を結び、それらの人々とより頻繁に会う
5人、15人、50人、150人の入れ子になった四層を見てきたが、150人の外側にも少なくとも2層存在する(図3-4)
こうした類の階層構造を持つ社会体制は霊長類の特徴であり、ヒトに特有なわけではない
ヒトに特有であるのは層数
さまざまなそうはどのような機能を持つかが、次章で述べる第5移行期の重要な枠組みとなる
霊長類の共同体がより小さな集団に分かれるのは、大きな集団で生活するコストから自分を守るために同盟や提携関係を作るためだ 実際、各層はそのすぐ上の層のための枠組みになる
上層は下層から生まれる性質を有し、これらの二層は複雑な緊張関係で結びついている
ヒトの共同体内の分派も同じ理由で生まれる
各レベルにおいて、より小さな集団が次に大きな層の存在を可能にする
ある意味で、最も説明が簡単なのは15人の層
この層の大きさは毛づくろい派閥の規範と霊長類の新皮質の関係にもとづく自然な同盟規模として予測できる サルや類人猿では、毛づくろい派閥の規模は、大きな社会集団で暮らすストレスから身を守るための同盟として機能する したがって、毛づくろい派閥の規模は集団全体の規模が大きくなるにしたがって増える
ということは、毛づくろい派閥は、馴染みの個体以外の者を自分の背中から排除し、集団で暮らすストレスを和らげるためにある
集団が大きければ大きいほど、ストレスが増えるので、余計な個体を寄せ付けないために、より大規模な毛づくろい派閥と同盟が必要になる
この関係を示す類人猿の式によって、ヒトの毛づくろい派閥の規模を予測すると、それはちょうど15人の層になり、これがヒトでは主な機能であることを示唆している
それは社会的支援や、経済的その他の日常的な社会的支援を得るための基盤となる
つまり、いざというときに無条件で駆けつけてくれる人々
15人の層のうち最内層である5人の層は、より強力な情動的支えを与えるのが主な機能のようだ
この層はヒトが他の霊長類より高度なメンタライジング能力をもつために、他の霊長類に見られない心理的な脆さがあることを反映するのかもしれない
心の理論とより高いメンタライジング能力をもつために、他の動物とは違って、ヒトは自分の行動から生じる未来の結果を想像し、自分に降りかかりかねない悪いことを予見する
こうした状況で悲しみを分かち合う相手がいることは、精神を健全に保ち、他の霊長類の社会よりはるかに複雑な私達の社会に対処するために欠かせないのだろう
狩猟採集社会の50人の層がもつ最も明らかな特徴は、彼らが夜をともに過ごすことを好む点にあり、これがその層の起源を知る鍵かもしれない
私達は夜間の視力がさほどよくないし、地面の上でしか寝られないので、夜には捕食者に対して一番無力になる
そこでどうしても、夜行性の捕食者に対する唯一の防衛作戦としてえ集団の大きさに頼らざるを得ない
50人の層は女性が食料を集める集団(女性は男性より大人数で食物探しをする)の基盤だが、ヒトがこれほどの大きさの集団をただ植物の根を掘り出したり、木の実をもいだありするだけのために必要としたとは考えにくい
全体として、この層の目的は夜間の捕食者に対する防御と、日中に食料を集めるあいだ安全に目を配る人数の確保だろう
私達は50人と150人の層がもつ6つの妥当性のある機能を絞り込んだ
捕食者に対する防御、縄張りまたは食料源の確保、環境リスクを最小限に食い止めるための交換体制、配偶者の保護、資源がある場所にかんする情報交換、近隣のヒトの集団による襲撃への備え(戦争仮説としても知られる) table: 現存する狩猟採集社会の6つの集団レベルそれぞれの機能評価
組織レベル 規模 捕食者からの防御 資源の確保 資源の交換 配偶者の保護 情報交換 仲間の襲撃
家族 ~5 No No No No No No
血統 ~15 (たぶん) No No No No No
バンド ~50 Yes No No No (たぶん) Yes
共同体 ~150 No No Yes No (たぶん) Yes
やや大きめの共同体 ~500 No No Yes No Yes Yes
トライブ ~1500 No No Yes No Yes Yes
たぶん=創発的な性質(その層があれば存在しうるが、その層を生み出す因子になりそうでない性質)をもつ機能を示す
社会脳仮説が150人の層は約10万年前の人口爆発のはじめごろに考古学的記録に出てくると予測しているのは偶然とは思えない
もちろん、いったん結束の固い集団に守られたなら、それを複数の目的に使うことは可能だ
ある特定の場所の状況が思わしくなければ別の場所でやり過ごさせてもらうための相互取り決めは、明らかに大きな共同体の副次的な利点
また食料源の分布に関する情報も広範囲に分散した大きな共同体の利点と思われる
狩猟採集社会の多くで交換ネットワークがあったことは知られている
たとえば、アフリカ南西部のジュホアンシのあいだでは、ハロとよばれる「象徴的な」贈り物を交換することによって、広範囲に分散した互助的ネットワークが形成される この贈り物を交わした者同士は、自分の土地の条件が悪化した際には相手に受け入れてもらうことで助け合う
人類学者のポリー・ウィスナーは、サン人のある集団が食糧難に瀕したときに遠方のハロ交換相手の土地に迎え入れてもらった例を紹介している もしそうしなければ死者が出たと思われるケースだった
同様の交換ネットワークは他の狩猟採集社会でも報告されていて、ヨーロッパの後期旧石器時代にも存在したとも言われている
ハロ交換の重要な側面は、その相手が自分が属するバンドではなく、離れた場所に住んでいる人々であること
ウィスナーが報告しているサン人の集団では、ハロ交換相手はたいてい40キロメートル以内に住んでいた
換言すれば、ハロ交換は原則的に同じ共同体(150人)に属する人の間で行われる
このことはバンドではなく、共同体が交換による協力の主な単位であることを示唆する
また150人の外側の層も考慮を要する
民族社会に関する私達の分析によれば、これらの外側の層も、現代社会では入れ子になった一連の同心円の自然な延長を形成するからだ
500人の層は、行き過ぎた近親交配のリスクを侵すことなく遺伝子交換するための最小規模であって、人々は普通自分と同じ共同体の人との結婚は避け、近隣の共同体の人と結婚すると言われてきた
これはこの層に関する完璧に理にかなった説明だ
なぜなら、この層はほぼ顔見知りと考えている人(互酬的で個人的な関係ではなく、より形式的で立場上の関係(言語に依存する)に基づいた不定期の関係を結ぶ人)から成るからだ
つまり、私達の共同体では、内部のネットワークのどの人がだれの結婚相手としてふさわしいかを請け合えるほど十分に知っているからだ
この層をもっともよく表す説明は、複数の生息地を含む広い面積をカバーするので、環境上のリスクを分散するための共同体間の互助ネットワークとして働くというもの
レイトンとオハラが報告した熱帯の狩猟採集社会の事例では、150人の共同体の平均的な縄張りの面積が5000km²だった
したがって、トライブに含まれる9, 10個の共同体は、合わせて約5万km²の縄張り(225km四方)を持つことになり、自分の共同体が生態学的な危機にひんしても、これだけの面積を利用することができる
これほど広い土地があれば、何らかの災害時の備えには十分だ
ということは、トライブ規模の集団が生まれたのは、約10万年前に始まった最終氷期に環境がどんどん悪化したために、互助範囲を150人の層からより大きな集団へ膨らませていったためと考えられる 現生人類が4万年前にユーラシア大陸の高緯度地帯で暮らせるようになったのは、この層があったおかげかもしれない
このような延長された社会ネットワークを維持するには、共有された文化と道徳観が欠かせないので、この層は解剖学的現生人類に固有のものだった可能性がある
ここにディーコンが提唱する象徴的共同体の起源がありそうだが、それは彼らには契約の交渉能力があったからだ 仲間の助けを得るのに延長されたネットワークに依存できるということは、現生人類とネアンデルタール人が争いに巻き込まれた歳に決定的な差を生んだかもしれない
本章で論じた進展は、600万年にわたる生物学的進化によって人類文化がついに開花したことを示している
しかし、この時期には5番目となる最終移行期の萌芽がすでに見られる
本章で語った内容はすべて文化に関わるが、文化は学習されるもので、好奇心と発明の産物であるからだ 新石器時代がもたらした5番目の最終移行期では、文化的発明が生物学的進化に取って代わる